本殿改修事業完成の御礼        令和5年4月吉日

平素は將門神社の護持運営に格別のご高配を賜り厚く御礼申し上げます。

ずいぶん長い間石の祠だけの神社でありましたが、その祠の前に皆様のご協力のもと、土間拝殿が落成しやがて10年が経ちます。おかげさまで、随分遠方よりおいでいただける参拝者、また定期的にご参拝される方も増えてまいりました。

熱心な崇敬者のご提案により、拝殿に<落書帳>を設置いたしました。ご参拝のおり、多くの方がいろいろ書いて下さいまして、楽しくまた有難く読ませていただいております。「鹿児島の知覧からご自分のルーツを探りに来た」「お参りを重ねたおかげか新居に住めるようになった」「お参りするたび新鮮な気持ちになる」などさまざまです。

当初、拝殿再建ともに本殿も再建したいと思っておりましたが成就できませんでした。こうして時が過ぎ、多くの方たちの崇敬を鑑みますと、是非再建を果たしたいと思うことです。天慶3(940)年2月14日、38歳の時、將門公は戦死されました。將門公が胸に秘めた夢、人々が將門公に託した夢は、忽然として消え去りました。死後程なくその御霊は、家臣達と共に対岸の明神下から騎乗し、手賀浦を渡り、岡陵に登り、昇天する朝日を拝されました。村人がその地に一宇を建てたことが、日秀將門神社の起こりと伝えられています。

爾来1080年余、日秀村の人々の信仰は篤く、畏敬されて今日に至りました。

時は、水の流れのように過ぎ去っても、民衆の苦難を自らの苦難と受け止め、生命を賭して生きた男の生き方を、私たちは忘れてはなりません。

魂魄という言葉があります。私たちは死後、魂―雲となって天上に浮遊する。魄―白は骨です、骨となって地下に残る、という意味だそうです。

利根川の流れを見、そして將門神社に参拝し、古の人の理念を、或は御霊を思い、中村天風の言葉を借りれば神人冥合して、橋本徹馬の言葉を借りれば神人一体の自覚を持って、將門公を拝し、衰えた気力(気枯れ)を祓い、明日を生きる鋭気を養って下さい。

その鋭気をもって、100年に一度といわれる大きな変革の時を迎える現代の私たちも、將門公が胸に秘めた夢と、人々が將門公に託した夢を偲び、古の人々の御霊と心を交わし、將門公が眼底に焼き付けた不動の星『北辰』を仰ぎながら、素晴らしい日秀村を、そして素晴らしい祖国を創り上げるべく、ともに決意を新たにする場としての將門神社を、末永く護り育んでいこうではありませんか。

皆さまの深いお力添えを賜り、この度本殿覆い屋が完成いたしました

ご報告と御礼を申し上げる次第であります、

以下、將門公にまつわる若干のお話をさせていただきます。

 

日秀(ひびり)村とは

現在の日秀は、千葉県我孫子市日秀です。下記に1000年前の東国の地図を添えます。五畿七道と言われた東海道です。律令国家の制度より下総国の国府は市川国府台付近に置かれ、葛飾、千葉、印旛、匝瑳、相馬、猿島、結城、岡田、海上などの12郡から成り立ち、それぞれ郡衙が置かれました。言うまでもく相馬郡衙は我孫子市日秀にその遺跡があります。

常陸国の国府は石岡です。

次は下総国と常陸国の図です。ここらが將門公の活躍した舞台です。

日本列島で最も早く太陽の昇る場所は犬吠埼です。東北大学の田中英道名誉教授は、縄文以後の時代、東国は日高見国と呼ばれていたと述べています。大祓詞に、大倭日高見国、と書かれていますあの日高見国であります。

 

1000年前、地上は平地だと思われていました。したがって世界で最も早く太陽が昇る地は日高見国です。だから日の本、日本です。

香取鹿島両神宮を入口において、香取の海は筑波山麓にまで及んでいます。市川の国府から石岡の国府に街道が進み、赤丸が記されている処が駅です。於賦(おぶ)駅は我孫子市新木付近、茜津は柏市藤心付近と考えられています。茜津から海上のルートも使えたということでしょう。そうして日秀には相馬郡の郡衙も置かれていました。日秀村は〔ひいづむら〕と呼ばれていたといいます。日高見国、相馬郡、日出村(ひいづむら)として相馬郡の中心地であったと思われ、遍く地上を照らす太陽のつまり天照大神の恵みを受け、感謝の日々を送ることのできた地であると想像できます。將門公もこの日秀村の地に帰り、昇天する旭日と共に天上に帰還したことでしょう。

 

將門公について

將門公は延喜3(903)年に誕生したと考えられています。

父を平良将、母を犬養春枝の娘の子として北相馬郡寺田村(現在は取手市)で誕生し、当時生まれた子は母方で育てられましたため、相馬小次郎と名のったのでしょう。犬養氏は古くは防人の養成所のような任にあたっていたようで、相馬郡、豊田郡に蟠踞していました。系図は以下のようになっています。

将門公は13歳で父を喪い、15歳で京に上り、藤原忠平に仕えます。同じころ、従兄の平貞盛も京に上っていました。この二人が後に宿敵となっていきます。將門公は、検非違使に任じられることを望みましたが叶えられず、相馬郡衙の下司職を拝命して28~29歳の時相馬郡に帰還します。

父良将の領地が、伯父の国香や良兼に荒らされていました。そこで一門の謂わば私闘が始まります。最初の戦は、將門公が京から帰還し程なく、上州花園村で、平国香、良兼らの軍と、平良文に加勢を受けた將門軍と合戦におよびました。しかし良文、將門軍はあえなく敗れ、わずか七騎で敗走し、染谷川の岸辺に追い詰められました。夜空には北斗七星が輝いていました。船もなく橋もなく、途方にくれました。

赤城宗徳の「平将將門」には、千葉神社の碑文に次のように書かれていると記してあります。『族(うから)なる、国香朝臣は、上つ毛の、染谷川原に、盾並めて、家の印の、月星の旗を靡かし、つづみ笛、天に響かし、射違うる、弓の弦音、山川に、とよみ渡りて、七日夜に三十六たびも、入り乱り、戦いけるを、良文が兵弱り、人みなの、死ぬべく見えしを、尊しや、北斗の星の星の神、味方助けて、末ついに、国香に勝ちぬ』(ただ現在、千葉神社に石碑は残存していますが、昭和2077日の千葉市街に対する焼夷弾による大空襲によって焼かれ、時を経て現在文字は判読できないそうです。)

「源平闘諍録」には、その時どこからともなく童子が現れ、浅瀬を教えてくれ、無事に渡河しました。川を挟んで矢戦となり、かろうじて勝利を得ました。將門公は跪いて童子の正体を伺いました。すると「我は妙見菩薩なり。汝は心武く慈悲深重なるが故に、護るべく来臨した」と言い残して消えていったと書かれています。

いずれにせよ將門公は北辰の加護によって難を逃れました。この時より、將門公の眼底には、いつも北に居て、ひときわ強く輝いている、不動の星、『北辰』が焼き付いたのであります。星の決まっている者は振り向かない。不動の『北辰』、小さな星々に至るまで、共にきらめく世界を目指そう、そう誓ったことでした。そうして將門公に連なる千葉氏、相馬氏をとおして、北辰妙見信仰は世に引き継がれていきました。

 

その後、野本合戦、川曲合戦、子飼合戦、弓袋峠合戦、石井館の戦いなど一族の戦いは繰り返されました。これが第一章で、武蔵国の武蔵武芝と興世王、源経基の争い、常陸国長官藤原惟幾と藤原玄明の争いに関わり舞台を広げた第二章を繰り広げていき、更に下野、上野へと侵入していきます。

時を同じくして瀬戸内海では藤原純友の乱が起きました。京の都はてんやわんやの大騒ぎとなり、さまざまな神社仏閣で、さまざまな加持祈祷が執り行われました。寛朝僧正は將門公調伏のため、弘法大師の作といわれる不動明王を奉じて下総の公津原に地を相して、調伏の護摩を修せしめ、感応たちまち現れたので、伽藍を建てて成田山新勝寺となりました。

日秀村では、毎年1月初めに<オビシャ>という行事を行っています。豊作を願い、的をめがけて矢を放つ弓行事です。通常恵方に向かって矢を射るのですが、日秀村では成田に向かって矢を放ちます。また、近くには、将門公の守り本尊と言われる観世音菩薩像が祀られている観音寺があり、境内には首曲がり地蔵といわれる地蔵尊が祀られております。この地蔵尊に、道行く人が「成田に行くのはどちらか」と尋ねたところ、地蔵尊は反対のほうを向いて「こっちだ」と言ったという伝承が伝わっています。

その戦いの経過を追ってみるにつけても、むなしく相馬に帰還した將門公が、なにゆえ多くの人々の支持を得て、たった10年足らずで、東国全域を支配するに至ったのか、そうして1000年後の我々が何故將門公を崇敬したいのか、そのわけを私たちなりに追ってみたいと思います。

 

時代背景について

将門公が誕生し、京に上り、下総国に帰還し活躍した10世紀前半は大きな時代の変革期でありました。大陸では大唐帝国が崩壊し、渤海が契丹に、半島では新羅が高麗に王朝が変わりました。我が国では、大化2(645)年大化改新により律令制度が取り入れられ、唐の制度を手本にして、農民の一人一人は口分田を貸与され、それに応じて租庸調という税を納める制度が整えられました。この制度が成立して約100年後、山上憶良の「貧窮問答歌」が詠まれます。『貧民は、寒さの中、海藻のような襤褸を纏い、土間に藁を敷いて、父母は枕のほうに、妻子(めこ)どもは足の方、囲(かこ)み居(い)て憂い吟(さまよい)竈には火気(ひぶり)ふき立てず』、というふうに書かれています。徴税は苛斂誅求を極めていたと思われます。特にこの時代、700年から720年急激な寒冷期が襲ったという研究があります。

そして、三世一身法、墾田永年私財法などが発せられ、延喜2(902)年まさに將門公誕生の前年に延喜荘園整理令が公布され、事実上律令国家が終わり、前期王朝国家が、つまり手本のない新しい日本という国が始まろうとします。地域の有力者は私営田を開発し、それを所有していきます。私営田は輸租田でありましたから課税対象の田地でした。しかし、公地公民の制度とは違い、徴税は困難となり、国司は受領となり、徴税にあたるために、田堵(たと)と呼ばれた有力私営田経営者にその権限を委託しました。その権限を請け負った有力者は、田堵負名(たとふみょう)と呼ばれ、請け負った土地を名田(みょうでん)と呼びました。

こうした変革の時代に、將門公は相馬郡に帰りました。10年京の都に居て、貴族は当時すでに寝殿造りの住居に住まい、衣服は衣冠束帯.十二単という光景を見てきました。帰ってみれば、農民は縄文時代そのままの竪穴式住居の土間で寝起きしていました。衣服といえば、空也上人の姿を思い浮かべて下さい、あのような姿だったと思われます。農民は口分田を逃れ、逃散を繰り返していました。この落差に公は甚だしい矛盾を感じないわけにはいかなかったのであります。將門公は自ら荒廃した土地を耕し、工夫を重ねていきました。そうした將門公を支えたのは、馬と鉄でした。將門公の時代には武士という言葉はありません。兵(つわもの)と呼ばれる言葉が登場します。強者(つわもの)とも書かれ又器者(うつわもの)とも書かれました。武器などの道具が上手に扱える、すぐれた技量と精神力を持つ人という意味合いでした。武器、とりわけ騎乗して、弓を射ることが堪能でなければなりません。馬を飼育し、武具を磨くことが求められました。將門公は長洲の牧(坂東市)大結(おおゆい)の牧(印西市)を管理下においていたようです。弓射騎兵が特殊技能として求められました。公は騎乗して牧を走駆し、兵馬の訓練に勤しんだことだと考えられます。今も福島県相馬地方で行われる相馬野馬追は、將門公が野馬を放ち、敵兵に見立てて訓練を行ったのが始まりと伝えられています。

そうしてもう一つ、公を支えたのは鉄です。葛飾郡、猿島郡、結城郡には、たたら製鉄の技術がありました。現在古河市に残る川戸台遺跡は東日本最大の製鉄遺跡です。良質な砂鉄と鋳型に使う川砂が容易に採取できたことと、隣接する渡良瀬川の水運が機能したとされています。八千代町にも尾崎前山遺跡などいくつもあります。鉄によって武器も農具も格段に向上し、農耕の生産性と戦闘力の向上に貢献したことでしょう。当時、米は谷津田や水辺で耕作されていました。丘陵は杜又は荒蕪地であったようです。荒蕪地には牧として馬を放牧していたようです。西国では農耕に牛を使い、東国では馬を使っていたようです。この丘陵地を開墾し、冬の麦、夏の大豆栽培も始まったようです。私営田の開発が進むにつれ、労働力の需要が発生します。過酷な徴税を逃れ、逃散した農民は將門公のもとに集まって来た、と山崎謙は「平将門」のなかで述べ、「馬と鉄器の使用によって急速に伸び始めた開墾事業は、必然的に、人手の需要の急速な増加を誘発した。だが、その当時の人手はすべて、公地に縛り付けられた公民か、個々の有力者の所有する奴隷かのいずれかであり、新規の開墾者の人手を求める場合は、公地や個々の有力者たちに所属する奴隷をスカウトする以外道はなかったわけである。將門の開墾事業の場合とは本質的にちがう。將門の場合は、彼の開墾事業への参加を通じて、これまで「奴隷」の身分であった人々が働き次第では自分の耕地を持つことのできる「農奴」にまで自己転換をとげえたのである。將門の場合のような困難な開墾事業は、成績をあげた者を自営農民にとりたるという解放条件なしには、けっして前進するものではなかった。」と書いています。著しい貧困のなかにいた農民たちは、將門公の開拓地で農地を預けられ、かなり自由に生活ができていたようです。

当時の軍の構成は、従類と呼ばれる主君と堅く結びついた弓射騎兵を事とする兵(つわもの)です。そして、伴類と呼ばれる従者は普段は農事に勤しんでいる人たちで、主に歩兵として従ったと思います。農作業が忙しければ出陣できません。形勢不利と見ればたちまち逃亡して戦列を離れてしまいます。將門公の軍勢は、圧倒的に伴類が多かったと言われています。將門公が最期を迎えるも、多くの伴類を帰還させていたと言われています。

 

將門公が胸に秘めた夢と人々が將門公に託した夢

日秀將門神社の参拝を終えて、時に利根川の河畔を歩き、あるいは橋上に立って、水の流れを見つめていますと、文字どおり『行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし』ということを実感します。しかし、坂東太郎の流れを見つめていると、將門公の胸に秘めた夢が感じられるのです。苦しんでいる民衆と共に、時の権力に生命をかけてともに立ち向かうとう精神の姿勢が、御霊(みたま)となって流れて尽きないのであります。

 

將門公の死後750年が過ぎて、千葉氏の末裔であるともいわれている木内惣五郎が、佐倉藩主堀田氏の重税に苦しむ農民のために4代将軍家綱に直訴をし、約1000年後には田中正造が、足尾銅山の鉱毒によって住んでいた土地を失った農民のために、天皇陛下に直訴に及びました。まさに將門公の御霊の再来と思われることです。

                            以上